2014/11/26

全国大会が終わった!

 全国大会が終わった。
 参加いただいた方々、大会関係者の方々にご苦労様でしたとお礼を申し上げます。
 諸般の事情で参加いただけなかった方々も居られる事と思いますが、来年はぜひ参加いただければと思います。
 全国大会は、只のお祭りではありませんから“よかった、よかった”で済むものではないと思うのです。
 一言でいえば、貴重な情報収集の機会であり、同じ立場の方々との情報交流の機会でもあります。 
 まして、生涯学習関係の教育メディア関係施設担当者としては、自地域なりの問題意識を持って参加する事が大切ではないでしょうか。
 大会等で発表された6教育メディア関係施設の考え方や内容は素晴らしかった事は言うまでもありません。
 しかし、それが、丸ごと自地域の活動に役立つとは限りませんが、柔軟に考えると必ずなにかヒントがあるものです。
 筆者もピンボケな愚見を述べさせて頂きましたが、今、地域視聴覚ライブラリー間の格差が大きくなっており、組織そのものが改廃される所も増えています。
 そんな厳しい現実の中ですが、地域視聴覚ライブラリーの存在意義のヒントとなるものが、6発表の中に隠れているような気がしたのです。
 誰もが言うように、メディアの多様化、学びの方法の多様化が進んでいます。
 NHKを始め大学、団体等から地域の教育メディア関係施設まで、映像コンテンツのアーカイブ化が進み、個やグループ、組織での学びでのメディア利用も変わりつつあります。
 これからの地域視聴覚ライブラリーは、フィルムパッケージだけに拘る事なく、ディスクパッケージやネットメディアまで、学びのねらいや方法に適応した柔軟なメディアサービスを考える必要があるように思います。
 むろん、これらを実現させるためには著作権問題を始め越えなければならない高いハードルがある事は言うまでもありません。
 それでも時代は、広く教育メディア関係施設が、多様なパッケージやネット等を活用しての映像コンテンツの利用、研修機会の連携、情報の共用共有等を考えなければならない状況に立たされていると思うのです。
 毒舌で恐縮ですが、研究会発表も展示説明も、学識者のお話も、承るだけでは役にも立たないと思います。
 自分自身が、自らが置かれた状況と考え合わせながら、知恵を働かせ見聞きしていると、意外な所に役立つヒントが隠れているのに気付くでしょう。
 そんな時、“ああ大会に参加してよかった!よし!帰ってあの考え方や実践をヒントに考えてみよう“と言う気持ちになれば高価な大会参加費を払って参加した意義があると思うのです。

2014/11/02

地域のつながり

 ICTが一般化し定着した今日、情報を入手しようとすれば、かなり納得できるデータや情報が入手できるのに、我が団体の情報は、印刷メディア、ネットメディアの情報が重複したり、事業案内に止まっているのではないかと内省しています。
 過去や実績に拘りマンネリ化してはならないと、別の機会に書かせて頂いたように、将来を目指すためには、過去にとらわれ過ぎてはならない、しかし過去や実績には、将来を考えるヒントが隠されていると思うのです。(これも重複ですネ)
 全国レベルの情報も非常に重要な事は無論ですが、これからの時代の視聴覚教育関係施設等が、時代にフィットした地域ニーズに対応できる組織として、最も大切な事は、ICTメディア等を通じて各関係組織や関係者の方々が情報を発信・受信・共有することにあるような気がするのです。(つまりコミュニケーションですね)
 ホンの小さな例ですが、東日本大震災の際、大津波で被災した某町のボランティアグループが、自分の町が被災した際のヒューマンなエピソードを紙芝居化しようと、いろいろ参考資料を探していた時、同じように大津波被害を受け、その際の被災者の様子を描いた紙芝居た某県の自作視聴覚教材コンクール入賞作品としてWEBサイト上に公開されていたでした。
 その作品を、紙芝居作りグループみんなで見て、自分達の作品づくりの参考にして、独自の紙芝居を完成させ、今、地域の復興イベントや学校での防災教育の際に利用され評判を呼んでいると言う事です。
 某県某市の視聴覚ライブラリーと、現実的には結びつきのない、某地域のボランティアグループが、“大津波被災”というキーワードで、遠く離れた地域同士が結びついた訳です。
結びつけたのは、“ネット-メディア”であり、“自作視聴覚教材コンクール”という事になりますね。
「結節地域」という地理学的概念を摸すれば、それぞれが発信する情報や事業が、自分達の地域の学びや活動は無論のこと、情報をシェアする事により、他地域の学びや活動に役立ち通じつながることにも注目して欲しいものです。

2014/10/06

教育映像を考える

 新教育映像利用に関する調査研究事業への応募が過去最低となったようです。

 最も、この傾向は近年続いており、事業そのものを見直す時期に来ているのかも知れません。

 国の教育映画補助事業の打ち切りを受けて、自主事業として継続してきたものですが、ご存じのようにメディアが多様化してきたことや、視聴覚ライブラリー自体の在り方が問われるようになった背景も見逃せません。

 教育映像コンテンツも、メディア環境や技術の進化により、従来の映写機やビデオプロジェクターから、タブレットを始め電子黒板等々、多様な利用方法により、学習効果を上げています。

 先月、小欄で小栗康平氏の文を引用して述べさせて頂きましたが、肝心のコンテンツ特に“教育”映像コンテンツの質というか、その特性効果について、関心が希薄なような気がしてならないのです。

 “教育”という言葉を敢えて使っているのは、映像の持っている訴求力と言うか表現効果というものが、狭い範囲でしか語られていないように見えるからです。

 ここで認識論を述べるつもりはありませんが、映像表現というのは、ただ単にわかりやすいだけではなく、見る人の心情や認識に働きかける効果があると言われます。

 教育映像コンテンツは、単に動画像としてわかりやすく見せるだけだはなく、映像表現技法を用いて教育的ねらいをしっかりと押さえ表現したコンテンツなのです。
 そこに、映像制作のプロフェッショナルが創る、市販“教育”映像コンテンツの存在価値があるのではないでしょうか。

2014/09/16

地域映像教材を創る

 前回の続きになりますが、優れた地域映像教材・作品を拝見すると、改めて映像教材や作品の制作・利用・学習機会提供に関する機能は、視聴覚センター・ライブラリー独特の得意技だなと思います。

 しかし、全国的に見ると、前述のような得意技を十分に発揮している視聴覚センター・ライブラリーはそうは多くないように思われます。

 この欄でも何度か取り上げていますが、現在、或はこれからの時代を見通した時、メディア・リテラシーの重要性は誰もが認めている所だと思います。

メディアを批判的に読み解くと、よく言いますが、肝心の映像がどのような考え方で作られているのか理解できなければ、本当の意味のメディア・リテラシーは育たないと思うのです。

 かつて、宮本輝作の「泥の河」を映画化した小栗康平氏が著書の中で次のように述べています。

 「家庭でも学校でも、大人になって社会へ出てからも映像の見方は誰も教えてくれません。学校でも映像をわかりやすい情報として活用しているだけで映像とは何かという根本的な問いはありません」注:「映画を見る目」NHK出版2005

 確かに、メディアは何であれ、映像が、子供達の感受性と、その成長に大きく関与しているのですが、学校は無論、社会教育等においても殆ど触れられていませんし、それについては、ごく一部の方々を除き無関心なのが現状でしょう。

 「伝えたい思い」を映像や言葉、音響等総合的な表現によるメッセージとして発信し、そのメッセージを見聞きした人々それぞれの受け止め方で伝わった時に、はじめて映像メディアとしての特性が発揮されたことになると思うのです。

 今日のICT社会において、上記のような映像について学ぶ機会を持ち、自主制作したり、制作グループを養成し支援する環境や条件を持ちうるのが、視聴覚センター・ライブラリーではないでしょうか。

2014/09/07

自作視聴覚教材を考える

 先月のブログは、夏休みなどと、勝手な理屈をつけて、ついつい“メディアをグチる”なんて事を書いてしまい反省しています。
 批判したり、悪口を言う事は誰でも言えます。大切な事は、仮に問題があるとすれば、それをどう改善したらよいか、共に考える前向きな発想だと思います。

 そんな意味で今後のブログを書きたいと思います。

 さて、話題を変えて、今年も全国自作視聴覚教材コンクールが実施され、社会教育部門では山形県米沢市の米沢自作視聴覚教材制作研究会のみなさんが作られた「伝統工芸 深山和紙」が、文科大臣賞(最優秀賞)に選ばれました。

 その他優秀賞に「受け継がれる伝統 篠路獅子舞」「三河木綿ー伝統を紡ぐ人々ー」「といといの子どもたち」が選ばれました。

 社会教育部門は、年々応募数が増えており、今年は総応募数の半数を占めました。

 応募作品には、個人が作った作品、メディア関係組織が行う講習会等で作った作品、視聴覚センター・ライブラリーの自作事業として制作された作品、或は自作ボランティアグループが作った作品、公的な組織が自事業のために作った作品などなど、いろいろあります。

 各道府県や団体が開催する自作コンクール等でも数の多少はあるかも知れませんが、同様な傾向が見られるのではないでしょうか。

 このような自作傾向を見ていていつも思うのは、こんなに素晴らしい作品が毎年自作されているならば、これらの作品を単に作って終わりにしてはならないという事です。

 自作視聴覚教材の良さは、地域に根差したきめ細かい企画と、その地域の人々の目線で作られているという事です。

という事は、他にはない、その地域独自の作品であり、その地域で利用されることに最大の意味があると思うのです。

 つまり、自作視聴覚教材は作ったら終わりではなく、それを利用する事が大切だと思うのです。

 よくアーカイブ化と言われ、それぞれ専門的な研究機関や団体施設等が積極的に進めており、視聴覚センター・ライブラリーもその趣旨を生かし、地域映像教材等のアーカイブ化の一翼担うべきでしょう。

 しかし、視聴覚センター・ライブラリーの役割は、アーカイブ化した地域自作視聴覚教材を地域における学びや暮らしに役立つよう積極的に利用のためのサービスを行う事にあると思います。

 今年受賞された作品が、それぞれの地域に持ち帰られて、多くの学びや暮らしに活用されることを楽しみにしています。

2014/08/12

夏の戯言:メディアを愚痴る

夏休みという訳でもないが、この所ブログ書きをさぼってしまい、反省している。
そのくせ、ごろ寝をしながらテレビを見たり、インターネットを使っていると、愚痴が出てくる。
今回は、その理屈にもならない愚痴を書いてしまったので、ざっとななめ読みして頂ければと思う。
近頃、家の中の模様替えをした関係で、書斎の隣り部屋から、テレビの音声が聞こえてくるようになった。
今までは、あまり気にもならなかったのだが、一日中かなりの回数、同じ番宣やCMが繰り返し流されているのはみなさんの方が十分承知の事と思う。
利益追求型社会ですから、売れなくては困るわけで、従って、ターゲットとなる世代対象の番組時間帯で、かなり過剰表現のCMが絶え間なく流されている。(当然規定があるので許容範囲内という事でしょうが)
見る側には“またか!”と、呆れてしまいチャンネルを切り替えても、CMタイムが重なっているのだから“・・いずこも同じ春の夕暮れ“という始末。
数年前、ある研究会で、テレビ番組の構成について意見を述べたら、担当者は冷たく一言「嫌なら、見なければいいでしょ!」
近年は、視聴率を上げるため、スポットCMもさることながら、番組の中で、あるいは番組自体が番宣的になっているケースも多く見かける。
テレビのCMや番宣について愚見を述べたわけですが、チョット視点は異なるが、テレビのみならずインターネット等でもいろいろな問題が派生している事はご存じのとおりである。
例えば、ネットで何かを探していると、次の日には関係する会社や製品の情報や宣伝広告が入っているとか、ネット通販で頼みもしない商品が送られてくるなど、以前は想定もできなかったICT時代の影の部分が目立っている。
つまり、次世代に対応するための大所高所論は兎も角、今日の庶民の立場から考えると、CMや番宣、ネット広告や押し付け情報等を、批判的に見て冷静に判断できる能力を身に着けなくては日常生活も安心して過ごせない時代となったと言えよう。
今日、メディアに不慣れな世代の方々が当面している状況に対応できるメディアリテラシー育成を生涯学習の主題として積極的に取り上げる必要があると考える。

2014/07/01

教え、学ぶ道具

 書棚の片隅から、変色した昔の視聴覚教育時報が出てきました。懐かしく読み直していると、その巻頭言に筆者の愚言が掲載されているのに気が付きました。
 曰く、“メディア上手の授業下手”と言うテーマで、とかく視聴覚を担当される先生方の中には、視聴覚機器については精通し、技術も優れている先生が多いのですが、肝心の普段の授業の中で、それらを使って子供の力を伸ばす”となると、どうもー?”考えてしまうような授業下手な先生ではいけない“と、今読み直して見ると恥ずかしいような暴論を書いているのです。
 巻頭言を書いてから、既に二十年近く経過しており、現在では産官学挙ってICT教育に取り組み、その成果が公表され、各学校等にICT活用が普及し始めています。
 しかし、自分の身の回りの、ごく普通の学校を見る限りでは、まだまだこれからかなと言う思いもしないではありません。
 念のため、知り合いの某校長に伺ってみると、“十分理解してはいるんですが、普段の授業を変えると言うところまではなかなかー”という答えが返ってきました。
 とは云うものの、ごく普通の学校の授業も、静かにそして少しずつ変わってきている事も確かです。
 教育に限った事ではありませんが、それぞれの専門分野の方々は、それぞれの分野の必要性や重要性を説かれます。(当たり前の話ですが・・)
 しかし、それを受容し授業をする側の、ごく普通の学校の先生方に必要な事は、社会や地域の現状やひとりひとりの子ども達の事を考え、将来を見つめ、それらの理論や考え方を冷静に考え判断し、バランスのとれた実践ができる能力ではないでしょうか。
 話を、暴論の続きに戻させて頂きますが、確かに電子黒板、タブレットと進化したメディアが導入されていますが、それらはあくまでも“教える”“学ぶ”ため、つまり日常の指導や学び方等の効果を高めるための道具である事を念頭において欲しいのです。
 ICT活用により、日常の“教え”や“学び”が変わらなくては何の意味もないと、誰もが思うごく当たり前な事を呟きたいのです。

2014/05/26

地域に役立つライブラリー

今年度「地域視聴覚ライブラリー機能改善に関する研究」が盛り込まれました。

「ICT時代に今更・・」とか「遅過ぎだよ!」と思われる方もいるでしょうし、一方、「いくら綺麗ごと言っても」と、無関心な方も居られのではないでしょうか。

そんな空気を感じつつも、あえてこのテーマを取り上げている訳は、現状のままの視聴覚ライブラリー(ライブラリーと云う概念も含めて)は、すでにジリ貧状況にあり、やがては“ライブラリーの役割は終えた“という考え方になり消滅する可能性もあり得ます。

そう多くはありませんが、自ら体質改善に努め、新たな“メディア施設“として、地域での存在価値を高めている所もありますし、反面、新規購入予算もつかず保有映画教材の貸出だけを行っている視聴覚ライブラリーの中には、地域のメディア環境や利用傾向とはフィットしない組織体となってしまっている所もないわけではありません。

ICTだ、タブレットだ、SNSだと、単に時流に乗って新しいメディアやシステムを追いかけるのではなく、心底、地域における学びに役立つメディアサービスを行うためには、視聴覚ライブラリーは、今後、どんな組織体制で、どのような役割や機能を持つ事が望ましいか、ICT環境整備や活用等も視野に入れながら、他のメディア組織との関係も含め、地域の学びメディアサポート環境を整えなど、フレキシブルなメディアコミュニティづくりに役立つ姿を検討する機会が必要ではないでしょうか。

元来、視聴覚ライブラリーは、縁の下の力持ち的な役割を担ってきたのですから、地道に粘り強くしかも柔軟な発想のもとに、一段一段階段を上るように、現実的に実績を示しながら地域のニーズに対応した視聴覚ライブラリーへとリフレッシュすべきではないでしょうか。

2014/04/21

期待しています!

 年度替わりの人事異動で、ご協力頂いた、専門委員の方々の約半数が交代された。
 異動された方々には“ご苦労様でした。“と申し上げると同時に、新しい職場でも、その優れた能力を十分に発揮してくださいと申し上げたい。

 一方、前任者に代わって、新たに教育メディア関係担当になられた方々には、ぜひ新しい感覚と知識、そして行動力を持って、右肩下がりで、その価値認識が希薄になりつつある視聴覚教育メディアの活用、センター・ライブラリー等のテコ入れをぜひお願いしたいものです。

 某誌のコラムで、役所で突然トイレに行きたくなり、トイレを貸してくださいと言ったら、ではこの書類に印鑑を押してください。と言われ、小ではなく大の方だから、それどころじゃないと言うと、あ、それでは書類が違いますからこちらの方に書き直してください。という、むろんジョークですが昔の新作落語の枕に出てくるような笑い話が記事の一部に使われていました。
 むろん、そんなバカなことはあり得ませんが、よくあるパターンとしては、前年度までやっていた事や考え方を、踏襲して無難に業務をこなす傾向もないとは言い切れず、新担当者としては、ぜひ、視聴覚センター・ライブラリーに関する情報を集め、しっかりと勉強し、新鮮な感覚と知恵を持って業務に取り組んで欲しいと思います。
 むろん、組織の仕事ですから、ひとりの考えだけで、どうこうなるものではありませんが、以前からよく言われているように、担当者がやる気にならなくては何も変わりません。
 筆者が向こう見ずの若者(いや、バカモノ)の頃、自らが取り組む業務を改革しようと思い、当時としては壮大な計画を立てたのですが、誰も賛成してはくれませんでした。
 しかし、“思い込んだらなんとやらー”で、このシステム改革を行えば、少ない費用と手間で、子供たちの学力が育つのだからと、上司から関係者の方々を説得して回ったことを思い出します。
 自らが担当する業務は、地域のために、あるいは学校のためにこう役立つという信念を持って取り組んで欲しいのです。

 偉そうなことを書きましたが、要は貴方の知恵と努力によって、地域はむろん大きな事を言えば日本のメディア教育を変える可能性だってあり得ると言いたいのです。

2014/03/30

全視連創立60周年記念誌編集を終えて

 全視連創立60周年記念誌の発行もすみ、ホッとしています。

 膨大な資料を読んでいるうちに、全視連に関わられた方々のお名前や顔写真が思い出され懐かしさで一杯になりました。

 創世記の大先輩はむろんの事、創立50周年以後10年の間、直接指導を頂いたり、支援頂いた故井内会長はじめ副会長や常任理事をお勤め頂いた方々 そして専門委員として積極的に運営や研究に関わって市等の視聴覚ライブラリー関係者を始め、全視連初めての専門委員をお願いしたS県のA視聴覚ライブラリーとK県立図書館の若い二人の職員の方も忘れることが出来ません。

 むろん、長年にわたって事務局を置かせて頂いている、日本視聴覚教育協会職員のみなさんにお世話になっている事は言うまでもありません。
 また、ふたつの机しかない、狭い事務局でお世話になったHさんUさんが居られなかったら、怠け者の筆者などは、とっくに全視連から逃げ出していたと思います。
 なにより、この10年間、裏から全視連を支えてきた事務局次長の的確な事務処理の事も触れておかねばならないと思います。
 全視連のこれからの10年を予想すると、様々な困難に当面するかも知れませんが、加盟団体も視聴覚ライブラリーも、新たなメディア環境や機能を持つようになり、全視連も改革が進むと思います。いや進めなくてはならないと思います。
 今回の全視連創立60周年記念誌刊行にご協力頂いた方々に心より感謝致しながら、このブログも新年度へと繋ぐことにします。
それでは、また4月中に、紙面を陽春らしくリニューアルしてお目にかかりたいと思います。

2014/02/10

教え合い・学び合い・共に行う

 過日、筆者が顧問を務めさせて頂いている、地元のフォト&ビデオ同好会の仲間が、近くの溜池に飛来している白鳥の撮影に行く打ち合わせをしました。

 打ち合わせと言ったって、多分こんな角度から撮るといいとか、レンズはどうとか、技術的な話をするだけだろうと、会場に行ったら意外な場面が展開されていたのです。

 同好会の幹事である元理科の教師S氏が、自分が撮ってきたビデオ映像を映しなら白鳥の習性や生態等について説明しているのです。

 仲間は、説明を聞きながら、気軽に質問をしたり、意見を言ったり、時には突っ込みを入れたり、楽しそうにビデオを見て、S氏の話を聞いているのです。

 S氏も、仲間ゆえリラックスしてニコニコ笑いながら考えたり答えたりしていました。

 1時間程の白鳥の生態についての説明を聞き終わると、今度は仲間の中でも一番写真撮影の経験が豊富で、写真展などで入賞しているNさんが、“さーて、そういう事なら、**ミリ位の望遠レンズが必要だと思うよ、被写体の白鳥は遠くからしか撮れないとなれば・・・云々、飛び立つ所をうまく撮るには、シャッターチャンスが・・とか、白鳥の白さをすっきりと撮るには逆光のポジションより、池の東側にカメラを持ち込んだ方がいいなあなど雑談がらみのアドバイスや、カメラを実際に操作して見せ、みんなはそれを見て自分なりにカメラをチェックしてから出かけて行きました。

 この会は、小中高校教師を務め終わった先輩後輩が、定年退職後、写真やビデオを楽しもうと声かけあって作った同好会なのです。

 この日の白鳥撮影会は、野鳥研究が専門のS氏が、教える立場になって仲間に解説していたという訳です。

 筆者は、この場面を見て、前回の”人材の宝庫”の活用を思い出し“そうだ!これも地域における生涯学習のひとつのスタイルだと思ったのです。

 つまり、偉い先生を呼んで話を承るだけでなく、それぞれが持つ得意技を生かして教え合ったり、もっと詳しく知るために学び合ったり、そして実際にみんなでやってみる主体的な学び合いもあると思ったのです。

 そう云えば、過日行った”古民家撮影会”の打ち合わせの時も、郷土史に詳しいY氏が解説し、そして仲間と一緒に撮影し、その作品は地域の公民館で行う講座「地域に残る古民家」で、生涯大学校の講師をしている仲間のH氏が資料に使って話をしていたケースも、同様な考え方に当てはまる例だと思いました。

 しかも、この話を聞いた地域の方々数名は、古民家に興味を持った有志でグループを作り、実際に現地へ出かけ、写真と照らし合わせながら見学するという回りまわる形になっていたのです。
 地域の映像づくりや利用についても、自分達の持つ知識や経験を生かして教え合ったり、あるは仲間の話を聞いて興味や知識や技術を深めたり、さらには、学んだ結果としての写真やビデオ映像を整理して公的な施設(例えば視聴覚ライブラリーや図書館等)に蓄積し、その映像資料を使っての座学や興味を持った同士でフィールドワークを行って深める生涯学習のスタイルを、同好会の仲間達は知らず知らずのうちに行っていた事に気が付いたのです。

2014/01/12

人材の宝庫

 遅ればせながら新年のご挨拶申し上げます。

 年初めの連休-、視聴覚教育時報の全視連創立60周年記念資料を探していた所、10年前の視聴覚教育時報の対談記事の中に、“人材の宝”を生かすべきだ、とのコメントを見つけました。

 多少の言い換えをお許しいただくとして、概ね次のような事でした。

「それぞれの地域には、今まで視聴覚の仕事をしてこられた方々がいらっしゃる、それは研究者や現場で色々と苦労なさった方々などですが、そういう方々と、今、現場で活動されている方々との結びつきを大切にしなければいけませんね」と述べられていました。

 さらに、「人材の宝庫が、末端のところで眠ってしまっているのは問題だと思うのです。そういう方々とのコミュニケーションを大切にするように、地域の視聴覚教育施設も全視連も努力しなければならないし、そうすることによって、短い年月で担当者が変わられても、継続的に充実した活動が可能になると思うのです。」とも話されていました。

 また「全視連は、理屈だけで行動のできない頭だけの組織になってはいけませんね」と語られており、厳しくも本質を突いたコメントのような気がしました。

 あれから、10年経ちましたが、あの時頂いた提言を反芻し、全視連という団体は無論のこと、地域の教育メディア施設等では、厳しい現実を生き抜くために、自らの地域の有識者や先任者等、人材の宝庫を活用していると言えるだろうか、と資料を読みながら、考えてしまいました。